私たちの大志Our Vision & Voices

ムクナ豆博士の日誌

1. 永六輔さんとパーキンソン病

私の母はパーキンソン病でした。ムクナ豆を1999年から10年ほど飲みました。

オブラートに包んだ粉を毎日2回飲むのが日課で、私の役目は豆を挽いて粉にすることでした。3か月に2回くらい東京から兵庫に戻り、実家で挽きました。ものすごい音を出して粉砕するのですが、硬いムクナ豆はミルサーの刃を何度も折り、私は合計6台くらいミルサーを買い換えました。

それまで年2回(盆と正月)だった帰省は、この用務で年8回に増えました。今思えば、少しだけ親孝行ができたかもしれません。

母が亡くなったのは2010年でしたが、永六輔さんがパーキンソン病だとわかったのはその頃だったと次女の永麻理さんは記しています。

どこへでも足を運び、人との繋がりを大切にしてきた父だけに、平成22(2010)年にパーキンソン病とわかってからの晩年は葛藤も多かったと思います。

立て板に水の如く話せていたのに、呂律が回らなくなる。頭ははっきりし、言葉がどんどん浮かんでくるのにうまく喋れない。辛かっただろうけど、父は「パーキンソンのキーパーソンになる」と笑いに変えながら病気と向き合いました。

――永麻理「永六輔 宮本常一先生の教え」文藝春秋2025.1

私が永六輔さんと初めてお会いしたのは、1988年でした。私は32歳で、釧路で働いており、それから手紙による交流がはじまりました。永さんはラジオ番組で私が書いた新聞コラムを紹介するなど、何かと気にかけてくださいました。お礼状を書くと「必ず」返信があり、それを見て私は毎回感激していました。短い文章で人の心を掴む達人、天才だったと思います。

私の方からの手紙を絶やさずもっと出していたら、ムクナ豆のことも話題にできたのに……。今の私は申し訳なさと残念な気持ちでいっぱいです。

ムクナ豆の若芽は黄金色